こんにちは。
以前ご紹介した戦国無双5について、今回は本作の無双武将である松永久秀について、ざっくりご紹介します!
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私がいくつかの本を読んだ中で、自分として最もしっくりくる内容をご紹介します。人によって内容は変わると思いますので、あくまで一つの説として読んでください。これをきっかけに皆さんがご自身で調べてもらえますと幸いです!
松永久秀の登場
松永久秀は出自が不明となっておりますが、生まれた年は1508年や1510年と言われており、1534年生まれと言われている織田信長より20歳以上年上となります。
久秀は最初三好長慶に仕えます。
当時三好家は畿内で勢力を拡大しているところで、細川家と対立していました。
細川家は室町幕府の重臣で、実権の無い将軍足利家を利用し、京を支配しており、三好家も元々細川家の家臣でしたが、三好家が力を持ってきたことで長慶の父が細川家に殺されてしまい対立することとなりました。
そしてこの対立は三好長慶が勝ち、京を支配することができました。
三好家での台頭
久秀は長慶に重用され、大和国の多門山城を本拠として三好家内での勢力を拡大していきました。
そんな中、長慶は信頼している二人の弟(十河 一存、三好 実休)と息子(三好義興)が立て続けに亡くなるという不幸が起きます。
これにより長慶のメンタルはかなり落ち込み、正常な判断ができない状態であったと言われております。そして最後の弟である安宅冬康を謀反の疑いで自害に追い込み、その後長慶自身も亡くなってしまいます。
これら一連の事件には久秀が関与しているという話もあります。
東大寺大仏殿焼き討ち
長慶が亡くなった後、三好家は長慶の養子義継が継ぎ、後見役の三好三人衆と久秀が支えるかたちとなりました。
そしてさらに勢力を広げるために、とうとう13代将軍義輝を殺害し、義栄を14代将軍とし、傀儡政権を作ることに成功します。
しかし久秀が義継を傀儡政権として三好家を牛耳りはじめたことで。この体制は長くは続かず、次第に久秀と三好三人衆は対立していきました。
そしてついに合戦となり、三好三人衆は東大寺に陣をおきました。これは大仏があるために、久秀もそう簡単には攻撃できないであろうという算段でしたが、久秀は焼き打ちをしました。
戦国時代のお寺焼き討ちは残虐な行為として織田信長の比叡山延暦寺の焼き討ちが有名ですが、その数年前に先に久秀が行っておりました。
織田家に臣従
しかしその後も三好三人衆との対立が続いていのですが、このあたりで信長が上洛してきました。そこで久秀は状況を打開すべく、信長に臣従することとしました。
その時に、名器「九十九髪茄子」を献上したとされています。
信長は上洛戦の大義名分として、13代将軍義輝の弟である義昭を京に戻すという目的であったので、義輝を殺した久秀の降伏の受け入れは義昭との関係上かなり難しかったと思います。
それでも信長が久秀の能力を惜しいと思ったのではと思います。
二度の裏切りそして爆死
久秀は信長臣従後、信長の戦に参加していきます。
そして有名なのが、朝倉攻めの侵攻をしてときに、同盟であった浅井長政の裏切りによって撤退戦を余儀なくされた「金ケ崎の戦い」です。
この時、久秀は信長を裏切ることもできたのですが、撤退経路の途中にある朽木谷領主を久秀が説得したことで、信長の窮地を救っています。
その後、信長包囲網が厳しくなり、武田信玄までもが包囲網に参加したことで、久秀は信長はこれまでと見限り裏切ります。しかし武田信玄が病死し、信長包囲網の勢いが削がれ、信長に降伏します。
これで落ち着くかと思いきや久秀は再度信長に反旗を翻します。
それは大和国で長年争ってきた筒井順慶の配下という扱いになったからだと言われております。
この時、信長はまた久秀を許そうとしました。しかし久秀は今回は降伏することなく、城内に火薬を集め、信長が欲しいといった名器「平蜘蛛釜」とともに、爆死したと言われております。
最後に
松永久秀は、暗殺・裏切り・大仏焼き討ち等悪名高く、乱世の梟雄と言われております。信長が、一度の裏切りを許しただけでなく、二度目の裏切りも降伏すれば許そうとしていたことからも、相当な能力を有していたのだろうなと思います。
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